世の果て/ペーパーナイフ/握る

 この世の果てが見てみたい、と言って彼は旅立った。出会った頃から夢想家で、それでもって行動力だけは有り余っている人だった。無鉄砲と言ってしまえばそれもそうだ。

 私には私の生活があるから、一緒には行けなかった。それでも彼は、沢山手紙を書くよ、と笑顔で出て行った。

 確かに彼は沢山手紙を書いて届けてくれた。決まって現地の景色と、そこで出会った人に撮ってもらった彼の写真付きだった。彼がどこをどう移動するか分からないからこっちから返事は出せなかったし、彼からの手紙もそれを前提としていた。

 手紙があるから寂しくないと言ったらさすがに嘘になる。彼は物理的にも遠く遠く離れていくし、距離のせいなのか彼が段々筆不精になってきたせいなのか、次第に手紙の間隔も長く空くようになってきてしまった。最初はそれなりに重たく分厚かった封筒も、今ではその半分にも満たないくらい薄い。ペーパーナイフで封筒の口を切る瞬間があんなにも楽しみだったのに、今ではこの小さな刃物が何よりも重たく感じていた。

 最後の手紙から、1年以上も経った。

 私は段々に彼からの愛情を信じられなくなっていて、それなのに貞淑を守り続けている現状に嫌気がさしていた。だいたい、彼が世界のどこかで他の誰かに愛を囁いていない保証なんてどこにもない。それでもまだ彼と恋人同士であるという事実が私の足を引き、いっそのこと私から別れを告げてこの状況を終わらせる手段もないことが異様にストレスだった。

 そんな折だった――家の郵便受けに、一通の手紙が届いたのだ。

 それを見て、私ははてと首を捻った。封筒に書かれた送り主と宛名書きは確かに彼と私のものだ。だが、これは彼の字ではない。高級そうな紙でできた綺麗な封筒に、きっちりと蜜蝋で封がしてある。現地で買ったレターセットにのりで封をする彼のやり方とはずいぶん違っていた。

 ざわりと胸騒ぎがする。私は震える手でペーパーナイフを握り締め、ゆっくり、少しずつ封筒を切り裂いた。

 高そうな綺麗な封筒から、まるで不釣り合いなくしゃくしゃの便箋が出てきた。正確に言うと、一度握り潰されたか何かでひどく皺の寄った紙をできるかぎり伸ばしたような状態で入れてあった。

 便箋には、ひどく弱弱しい筆跡ではあったけれど、確かに彼の字でこう書かれていた。

『愛する君へ

 世界の果てには何もない。なにもなかったんだ。』

 目の前がふっと暗くなるような錯覚があった。彼は……彼は一体、どうなってしまったと言うのだろうか。

 彼のことは半ば疎ましくすらなっていたというのに、こんな手紙を受け取ってから、私はどこかぼんやりとして、胸が重たくて何も手につかない日が続いた。

 そんな折、私の元にもう一通の手紙が届いた。

 先日と同じ封筒と筆跡、そしてシーリングスタンプだ。私ははっと息を呑み、もはやペーパーナイフを取り出すのも煩わしく、硬い紙質に手こずりつつも乱暴に封筒を破って中身を引きずり出した。

 今度は、封筒にふさわしい――今や私のせいで見る影もなくズタボロだが――ぴしりとした綺麗な便箋だ。字も封筒のものと同じだった。

『このお手紙を出すかどうか、とても悩みました。ですが、あのまま真実をひとり抱え込んで生きていくのはどうにも辛く、結局こうして筆を執った次第です。

 私はこの国に住むしがない老爺です。先日、あなたの恋人に頼まれて代わりにあなたへ手紙をお送り致しました。

 私が彼と初めて会ったとき、もうその時点で、彼はひどく衰弱しておりました。なんでもこの国のカジノで全財産を摩って、悪いところから金を借りたばかりに追い回され、もう何日も飲まず食わずで行き倒れていたんだそうです。

 私は彼を病院に担ぎ込むか、それとも食料を与えようかと思いましたが、彼はその前に紙とペンをくれと私に言いました。あなたに手紙を書かなければ、とうわごとのように呟いていました。

 それがあまりに血気迫っていたので、私は彼に手紙を書かせました。彼は路地裏に転がったまま(もはや起き上がることすらできなかったようです)やっとあの短い文を書き終え、震える手で私にそれを寄越し、あなたの名前と住所を告げました。

 彼は間もなく亡くなりました。

 あのとき、無理にでも病院に連れて行けば、何か食べさせてやれば、何か変わったのかもしれません。本当に、あなたにはどうお詫び申し上げれば良いのか分かりません。

 彼の遺体を引き渡した警察に、あなたが恋人であることは言いませんでした。どこかから情報が洩れて、彼を追い回していた金貸しがあなたの元へ向かうといけないと思ったからです。だから、彼をあなたの元へ帰してやることすらできませんでした。本当に申し訳ございません。彼はこの国の教会の裏手、身寄りのない人々が埋葬される墓地にいます。教会の場所だけお伝えいたしますが、お越しの際はくれぐれもお気をつけください。』

 私はふう、とひとつ息を吐いた。正直、頭の片隅できっと生きてはいないだろうと思ってはいたけれど――まさか、カジノで金を摩った挙句金貸しに追われて野垂れ死ぬとは。

 手紙の最後には、例の教会と思しき住所が記されていた。本棚から引っ張り出した世界地図を広げて、なんとなくここか、とペンでつつく。

 まあ、地球は球体なんだから当たり前だけれども――どこが世界の果てだ、と私はもう一度ため息を吐き、それから手紙は細かく破いて捨てた。

 

(55分)