世の果て/ペーパーナイフ/握る

 この世の果てが見てみたい、と言って彼は旅立った。出会った頃から夢想家で、それでもって行動力だけは有り余っている人だった。無鉄砲と言ってしまえばそれもそうだ。

 私には私の生活があるから、一緒には行けなかった。それでも彼は、沢山手紙を書くよ、と笑顔で出て行った。

 確かに彼は沢山手紙を書いて届けてくれた。決まって現地の景色と、そこで出会った人に撮ってもらった彼の写真付きだった。彼がどこをどう移動するか分からないからこっちから返事は出せなかったし、彼からの手紙もそれを前提としていた。

 手紙があるから寂しくないと言ったらさすがに嘘になる。彼は物理的にも遠く遠く離れていくし、距離のせいなのか彼が段々筆不精になってきたせいなのか、次第に手紙の間隔も長く空くようになってきてしまった。最初はそれなりに重たく分厚かった封筒も、今ではその半分にも満たないくらい薄い。ペーパーナイフで封筒の口を切る瞬間があんなにも楽しみだったのに、今ではこの小さな刃物が何よりも重たく感じていた。

 最後の手紙から、1年以上も経った。

 私は段々に彼からの愛情を信じられなくなっていて、それなのに貞淑を守り続けている現状に嫌気がさしていた。だいたい、彼が世界のどこかで他の誰かに愛を囁いていない保証なんてどこにもない。それでもまだ彼と恋人同士であるという事実が私の足を引き、いっそのこと私から別れを告げてこの状況を終わらせる手段もないことが異様にストレスだった。

 そんな折だった――家の郵便受けに、一通の手紙が届いたのだ。

 それを見て、私ははてと首を捻った。封筒に書かれた送り主と宛名書きは確かに彼と私のものだ。だが、これは彼の字ではない。高級そうな紙でできた綺麗な封筒に、きっちりと蜜蝋で封がしてある。現地で買ったレターセットにのりで封をする彼のやり方とはずいぶん違っていた。

 ざわりと胸騒ぎがする。私は震える手でペーパーナイフを握り締め、ゆっくり、少しずつ封筒を切り裂いた。

 高そうな綺麗な封筒から、まるで不釣り合いなくしゃくしゃの便箋が出てきた。正確に言うと、一度握り潰されたか何かでひどく皺の寄った紙をできるかぎり伸ばしたような状態で入れてあった。

 便箋には、ひどく弱弱しい筆跡ではあったけれど、確かに彼の字でこう書かれていた。

『愛する君へ

 世界の果てには何もない。なにもなかったんだ。』

 目の前がふっと暗くなるような錯覚があった。彼は……彼は一体、どうなってしまったと言うのだろうか。

 彼のことは半ば疎ましくすらなっていたというのに、こんな手紙を受け取ってから、私はどこかぼんやりとして、胸が重たくて何も手につかない日が続いた。

 そんな折、私の元にもう一通の手紙が届いた。

 先日と同じ封筒と筆跡、そしてシーリングスタンプだ。私ははっと息を呑み、もはやペーパーナイフを取り出すのも煩わしく、硬い紙質に手こずりつつも乱暴に封筒を破って中身を引きずり出した。

 今度は、封筒にふさわしい――今や私のせいで見る影もなくズタボロだが――ぴしりとした綺麗な便箋だ。字も封筒のものと同じだった。

『このお手紙を出すかどうか、とても悩みました。ですが、あのまま真実をひとり抱え込んで生きていくのはどうにも辛く、結局こうして筆を執った次第です。

 私はこの国に住むしがない老爺です。先日、あなたの恋人に頼まれて代わりにあなたへ手紙をお送り致しました。

 私が彼と初めて会ったとき、もうその時点で、彼はひどく衰弱しておりました。なんでもこの国のカジノで全財産を摩って、悪いところから金を借りたばかりに追い回され、もう何日も飲まず食わずで行き倒れていたんだそうです。

 私は彼を病院に担ぎ込むか、それとも食料を与えようかと思いましたが、彼はその前に紙とペンをくれと私に言いました。あなたに手紙を書かなければ、とうわごとのように呟いていました。

 それがあまりに血気迫っていたので、私は彼に手紙を書かせました。彼は路地裏に転がったまま(もはや起き上がることすらできなかったようです)やっとあの短い文を書き終え、震える手で私にそれを寄越し、あなたの名前と住所を告げました。

 彼は間もなく亡くなりました。

 あのとき、無理にでも病院に連れて行けば、何か食べさせてやれば、何か変わったのかもしれません。本当に、あなたにはどうお詫び申し上げれば良いのか分かりません。

 彼の遺体を引き渡した警察に、あなたが恋人であることは言いませんでした。どこかから情報が洩れて、彼を追い回していた金貸しがあなたの元へ向かうといけないと思ったからです。だから、彼をあなたの元へ帰してやることすらできませんでした。本当に申し訳ございません。彼はこの国の教会の裏手、身寄りのない人々が埋葬される墓地にいます。教会の場所だけお伝えいたしますが、お越しの際はくれぐれもお気をつけください。』

 私はふう、とひとつ息を吐いた。正直、頭の片隅できっと生きてはいないだろうと思ってはいたけれど――まさか、カジノで金を摩った挙句金貸しに追われて野垂れ死ぬとは。

 手紙の最後には、例の教会と思しき住所が記されていた。本棚から引っ張り出した世界地図を広げて、なんとなくここか、とペンでつつく。

 まあ、地球は球体なんだから当たり前だけれども――どこが世界の果てだ、と私はもう一度ため息を吐き、それから手紙は細かく破いて捨てた。

 

(55分)

深夜の会議室/扇風機/遊ぶ

 深夜。

 午後11時から時計を確認するのが嫌になったので見ていないが、間違いなく深夜ではある。

 俺は会社のデスクでおおよそ一日稼働し続けたPCの電源を切り、「うああぁ」と地獄の亡者じみた悲鳴を上げながらキーボードにがしゃんと顔を突っ伏した。変な跡がつきそうなのですぐに顔を上げた。

 いつもはここまで残業しないのだけれど、今日はどうしても終わらせなければならない仕事がどうしても終わらず、こんな時間になってしまった。上司からは鍵も預かっている。

 あちこち軽く見回ったらもう帰ろう、と荷物をまとめ、ゾンビみたいによろよろと立ち上がった。

 廊下に出ると、何やら明かりのついた部屋が見えた――会議室のようだ。まさかまだ誰かいんのか、と思ったが、中に入ると完全に無人だった。どうやら、単なる消灯のし忘れらしい。

 やれやれと思った俺だが、ふと、部屋の片隅にあるものを見つけた。

 扇風機だ。

 カバーのつもりか、ビニール袋を被せた扇風機がぽつんと鎮座しているが、この部屋にはエアコンが置いてあるのに。否、エアコンが導入されてからまったく見向きもされないからこうなのかもしれない。

 俺はさっさと帰ろうと思っていたのを忘れ、ビニール袋を取った。ちょうどコンセントが近くにあったので、プラグを挿す。

 スイッチを押すと、問題なく稼働を始めた。

 少しぬるい空気が掻き混ぜられ、目の前に立つとさすがに涼しい。

「あー、わああ」

 吹き付ける風で声が波打って面白い……面白いだろうか? 残業なんてしたから頭が疲れているのかも。

 しばらくそうやって遊んでいると、背後からがた、と音がした。

 はっとして振り向くと、後輩が「どうしよう」みたいな顔をして俺のことを見つめていた。

 いたのかよ。そんで、見られてしまった。

 

(35分)

浴室/大吟醸/歩む

 とある休日、適当にテレビをつけて昼下がりの旅番組を見るともなしに見ていた。見たことのある芸能人が旅館でおいしそうな料理を食べ、温泉に浸かっている。ただそれだけの内容だが、見るのにあまり脳みそを使わずに済むという点に於いてはこんなぼけっとした休日の一コマにはうってつけなのかもしれない。

 露天風呂に入っていると日本酒が饗され、大自然を目の当たりにしながらお猪口を傾けている姿に、漠然と「いいなあ」と思った。そもそも風呂に入りながら飲食をするという発想が自分の中に今まで無かったので、目から鱗が落ちた。

 今から酒を持ち込める旅館に行くのは無理があるが、家で気分を味わうくらいなら可能だろう。あれだけだらだらとしていたのが嘘のように身支度を簡単に整え、私は意気揚々と家を出た。

 とりあえず温泉の素を――と思ったが、あの独特のにおいがあまり得意ではない。あんな感じだったらどうしようと考えてしまい、結局普通の入浴剤にした。

 日本酒にもあまり詳しくないが、とりあえず大吟醸を一升瓶で購入し、ついでに徳利とお猪口も用意した。風呂場に一升瓶まるごと持ち込むのも煩わしい。

 まだ日は高いが、他にやりたいこともなく、帰宅するなりさっそく風呂に湯を溜めた。どうやら大吟醸は冷やすといいらしいが、瓶が大きくて仕舞うのに難儀するのと、入浴までに冷えるか心配だったので、こんなことをしていいか分からないのだが徳利に注いで冷蔵庫に入れておく。誰も見てないし……。

 しばらくして湯張りが完了したことを給湯器に告げられ、私はいそいそと脱衣所で服を脱ぎ、お湯に入浴剤を放り込む。いつもはそのままのお湯に入ったり、何ならシャワーで済ませることだってあるので新鮮だ。お湯はあっという間に白く濁っていく。見た目だけならなんとなく温泉っぽいような……ただの風呂のような……。

 風呂の蓋を半分開けて、その上にトレーを乗せ、徳利とお猪口を置く。ちゃんと冷えているようだ。

 とりあえずざっと身体を洗い、湯船に浸かった。身体の先端から温まっていく感覚と花のような優しい香りに、ひとりでにため息が漏れる。

 そうして、徳利からお猪口に酒を注ぎ、ほんの少し口を付けた。

 アルコールの強烈な感覚はあるが、なんだか呑み込みやすくて、いい匂いがする。酒は冷えているが、喉を通っていくと余計に身体がぽかぽかと温まるような感覚があった。

 これはいい、と少しずつ舐めるように酒を呑み、やがて頭の中がふわふわとして、身体が末端からじんと重たくなっていくような気がした。

 そこでふと、私は気付いた。

 ……つま先の辺り、底が抜けているような?

 そんな馬鹿な、それだったらとっくにお湯が抜けている、とも思うが、つま先を風呂の底に滑らせるように探ると、どう考えても底の抜けている部分がある。

 私は思い切ってお湯の中に身を沈め、手でそこを探った。……なんだか、思っていたよりも穴が深い気がする。それでもって、頑張れば全身入ってしまいそうだ。

 アルコールが回ってあまり冷静な判断ができていないのか、はたまた開放的な気分になっているのか。自分では分からないが、私はとうとう、その穴の中に全身で潜り込んでしまった。

 中は通路のようになっていて、暗い。階段を下り、暗い中をとことこと歩いていると、急に視界が開けた。

「……えっ」

 温泉だ。しかも……これはなんだろう。見たこともない生き物がお湯に浸かっている。チョウチンアンコウの疑似餌が目玉になったようなものがついている人のようなものとか、創作物でよく見るクラゲに似た形状のいかにもな宇宙人的な生き物とかが、石造りの露天風呂に浸かっているではないか。

 ここはどこだろう。私は何を見ているのだろう……。宇宙人然とした謎の生き物たちは、蛍光色に光る意味不明な液体をうまそうに呑んでいた。恐怖と驚愕で震えあがっていた私だが、ふと、顔全体がひとつの巨大な目玉で埋まった一応人型の何かがぐりんとこちらを向いた。

 私は情けない悲鳴を上げ、元来た道を引き返し――は、と我に返った。

 がぼぼ、と口にお湯が入り込み、目を白黒させてもがく。やっと顔を上げて呼吸を確保し、気が付く。湯船で寝ていたらしい……。

 手に持ったままだったお猪口はお湯の中に沈み、溺れかけてじたばた暴れたせいで徳利は倒れている。風呂の蓋はお湯だか水蒸気の冷えたものだか酒だか分からないもので濡れていた。

 私はがっくりと項垂れ、お湯から上がる。入浴しながらの飲酒は危険だ。片付けも面倒だし、こんなことは金輪際しないだろう。

 

(50分)

真っ赤な鳥居の下/水中撮影/叫ぶ

 両親の言う通りの人生を歩み続けおよそ16年と少し。勇気を出して「写真家になりたい」と打ち明けた心の内は、しかし受け入れられることはなかった。

 両親は昔から教育熱心で、幼い頃からお前は医者になるんだなんだと刷り込みのように言われ続けてきた。碌に友達と遊びにも行けず勉強漬けの日々。クラスの皆が話すドラマは見たことがないし、ゲームもやったことがない。

 ただ、祖父はそんな私を見かねたのか、何年か前に一台のデジタルカメラをプレゼントしてくれた。これなら娯楽品には見えないから、両親に文句を言われたり取り上げられることは無いだろう、とのことだった。

 最初は娯楽品に見えないどころか、そもそもこんなもの娯楽にならないと鼻白んでいた私だったが、ある日とうとう勉強に嫌気がさして、私の部屋にある唯一勉強と関係のないそれを手に取った。

 身の回りに写し甲斐のあるものなんてなくて、なんとなく、部屋の隅に立ってそこから写真を撮ってみた。カメラの背面、小さな液晶画面に映る部屋は見慣れているはずなのに肉眼で見るのとは何かがちょっと違っていて、私の心にほんの僅かな興味が芽生えた。

 人生で初めて趣味ができた瞬間だった。

 それからと言うもの、私はなんとなく両親に隠れて、身の回りのものをぱしゃぱしゃと撮っては肉眼の景色と見比べたり、通学路の写真を撮ってみたりしていた。綺麗な花が咲いていたら写真によく映る角度や明るさのことばかりを考えていたし、ふとした瞬間にも「この景色をここから撮ったら面白そう」なんて物思いに耽っていた。

 昔から両親に言われるまま、何の疑いも志もなく医者を目指していたが、ここにきて思ったのである。このまま、写真を仕事にできたら、と。

 それを思い切って告白したものの、結果は冒頭の通りという訳だ。馬鹿なことを言うな、趣味で食っていけるほど甘くない、と散々に怒られた。そりゃあ確かにそうだろうけども。でも、生まれて初めて自ら持った夢を、そんなに否定することはないじゃないか。

 そんな私の反抗的かつ不満げな態度が目に余ったのか、両親は新聞を広げ、ある一面を指して言った。

 来月の写真コンクールに応募して、良い成績が残せたなら、少なからず見込みがあるものとしてその気持ちを認めてもいい。でもそうでないならそのカメラは没収する、と。

 負けていられなかった。そもそも、このカメラを取り上げられるようなことがあったら、そのとき私の心はぼきりと折れてしまうだろうという確信があった。考えるだけで恐ろしい。

 新聞社主催のそのコンクールのテーマは『秋』だった。なんともざっくりとしたお題である。

 その日から、私は必死に被写体を探し、目についたものを片っ端から撮っていった。紅葉、近所の猫、道端に落ちていた毬栗、秋服を着たショーウィンドウのマネキン……。

 その瞬間は傑作だ! と思うのだが、一晩寝て次の日見返すと、どれも凡庸でありきたりに見えた。こんな写真、何十何百枚と送られてくることだろう。もっと、何百枚の中からでも目を惹くような、それでいて心に残るような写真を、撮らなければ。

 そう思っている間に時は過ぎ去り、あっという間に締め切りの一週間前まで迫っていた。私はもう、藁にも縋る思いで、街の神社へと足を向けた。かなりこぢんまりとしていて、鳥居とお社とそれらを繋ぐ無駄に長い階段くらいしかないし、常に人がいる訳でもない小さな神社だ。

 神仏の類なんて普段信じちゃいないくせに、こんなときだけお参りに来るなんて。まさしく苦しい時の神頼み以外の何物でもない。

 ああ、ここも紅葉していて綺麗だ……だけど、この景色も何人もの人が写真に収めて自信満々にコンクールに応募しているのだろうと考えると、途端に手垢でべたべたに褪せて見えてしまった。思考がコンクールに支配されすぎている。

 段々に、私には向いていないんじゃないだろうか、両親の言う通り、今まで通り勉強に打ち込んでいた方がいいんじゃないだろうか、という考えが頭の片隅で存在を主張し始めていた。でも、そんな人生の意義と己の幸せについて考える度にぞっとする。私の人生なのだ。私が決めようとして何がいけないというのだ。少なくとも、何かに挑戦する権利くらい、私にもあるはずだ。

 吹き付ける秋風すら私に冷たくしているように感じた。

 昨日雨が降っていたせいか、真っ赤な鳥居の下にはずいぶん大きな水たまりが出来ていた。正直通りたくなかったが、鳥居を潜らずに入るのもどうなんだろう? という気持ちの方が大きく、結局早歩きで水たまりを踏みつけ鳥居を潜った。

 そこからすぐに伸びる石造りの長い階段を一段ずつ上がっていく。首から提げたデジカメ入りのケースがぶらぶらと揺れ、脚を踏み下ろす度に胸を叩いた。最近撮影のためあちこち歩くようにはなったが、今までの人生、圧倒的に運動不足だ。

 這う這うの体でお社に辿り着いたが、そういえばこういうときの作法もよく知らない。確か紐を引いて鈴を鳴らすはずだけれど、薄汚れていて気後れする。指先で摘まんで適当にがしゃがしゃと鳴らし、財布から10円を取り出して賽銭箱に放った。

 いい写真が撮れますように。

 とにかく自分で納得のいくものを撮って、このどん底の精神状態から抜け出したい。今の望みはただそれだけだった。

 お参りを終えて踵を返し、眼下に伸びる石段に辟易しつつも癖で一枚写真を撮り、また一段一段下っていく。色々考え事で頭がいっぱいだった行きと違って、帰りはなんだかぼーっとしていた。

 そんなんだから、よくなかったんだろう。

 もう少しで階段を降りきるというところで、私はずるりと足を踏み外し、鳥居の下の水たまりへと真っ逆さまに落ちた。

「ぎゃああぁっ!?」

 頭が真っ白になり、口からは勝手に叫び声が上がる。咄嗟にぎゅっと目を瞑り、地面に叩きつけられることを覚悟したが――私の身体は、予想外の衝撃を受けた。

 沈んでいる。

 水たまりに頭から落ちて、そうして、その下へとぶくぶく沈んでいるのだ。

 何が起きているのか分からなかった。鳥居が、地面が、遠くなっていく。水たまりの中は何故か澄み切っていて、高い空までよく見えた。

 あ、綺麗だ。

 私は無意識にケースからカメラを取り出し、その景色を切り取った。

 

 はっと気が付くと、私は水たまりの上に膝をついていた。びちゃびちゃの服を気にするより先に、私は慌ててカメラを確認する。

「あ……」

 確かに撮れていた。水中から見上げた鳥居――という奇妙な写真だ。

 これを提出すれば、と思ったが、普通に考えて有り得ない光景だ。合成を疑われてしまうだろうし、再現しろと言われても不可能だ。

 だけれども、ぱっと目の前が開けたような感覚があった。

 私は既に服が濡れて汚れているのをいいことに、ばしゃりと水たまりの上に横たわり、カメラ越しに鳥居を見上げた。真っ赤な鳥居と紅葉、そして高く高く澄み渡る青い空。こんな写真を撮ったのは、さすがに私くらいだろう。

 家に帰ると、全身びしょびしょのどろどろな私に両親が怒ればいいのか心配すればいいのか迷ったのか奇妙な顔をして言葉を詰まらせ、結局どちらでもなく風呂に押し込まれた。あまりに晴れやかな気分だったのが顔に出ていたのか、強く注意することも躊躇われたらしく、「もう高校生なんだから……」とだけ言われた。

 

 私の写真は優秀賞を取り、最優秀ほどではないが新聞の一面に載ることになった。これを知った祖父が褒めちぎってくれて、今度もっと良いカメラを買ってやる、なんて言ってくれた。両親は「勉強と両立させなさい」と口酸っぱく言ってくるが、とりあえずやるなとは言われなくなった。

 休日、カメラと、雨でもないのに雨合羽を持って出かけるようになったのは両親には内緒だ。またあんなに服を汚して帰ったら勉強や将来のこととは関係なく禁止されてしまいそうだから。

 

(55分/途中ちょっと居眠りした)

階段の踊り場/カクテル/求める

 私が働いている会社のオフィスがある高層ビルは、基本的にエレベーターで階層を移動する。非常階段はあるものの、なにせ階数が多いので、わざわざそれを使って移動するような人はいなかった。

 ところで、この非常階段には妙な噂がある。なんでも、非常階段の踊り場にはバーがあって、この世のものとは思えないほどうまい酒を出してくれるのだそうだ。

 なんという馬鹿馬鹿しい話だろうか。踊り場なんて無数にあるし、あんな狭い空間にバーなんてある訳がないし、何をどう聞いてもあり得ないし。

 社会人の集う場で、そんな子供の噂みたいなものが広まっているなんて嘆かわしい。きっとみんな疲れているんだろう……。

 聞いた話だと、別の部署の真面目に働いていた社員がある日から急に仕事をサボりだし、とうとう首を切られてしまったという。その社員もストレスが溜まって限界だったのかもしれない。

 ある日、私はいつものようにエレベーターを使ってすぐ下の階へ行こうとしたのだが、ちょうど点検作業が入っていて使えなかった。それ自体はすぐ終わるようなので、終日使えないということはないらしいが、目的地はたった1階下だ。点検作業が終わるのを待つより、さっさと非常階段を使って移動してしまうことにした。

 非常階段は狭くて、どこか薄暗く感じる。私ひとりしかいないので異様に静かだった。靴音だけがいやに響く。

 その、踊り場に差し掛かったときのことだった。

「……!?」

 私は思わず足を止め、目を剥いた。

 バーがある。

 何を言っているんだと思われるかもしれないが、踊り場の狭いスペース半分ほどを使ったカウンターがあって、本来壁であろうその後ろはなぜか空間が広がり、食器や酒の置かれた棚がどんと鎮座していた。

 カウンターの向こうには、ぴしりとした白いシャツにベストをつけた男が立っていて、グラスを拭いている。男は中年くらいで、髪をきっちりと撫でつけ、きれいに整えた口髭を蓄えていた。

「な、な、なにをしているんだ?」

 私が目を白黒させつつ尋ねると、バーのマスター然としたその男は無言です、っとカウンター前の背の高い椅子を手で指した。座れということだろうか。

 相手をするのも怖かったが、無視するのも怖い。結局私は、引力に導かれるようにカウンターチェアに腰掛けてしまった。

 男は何も言わず、背後の棚から謎の瓶を迷いのない手つきで数本取り、中身の謎の液体を次々にカップで量ってシェイカーに流し込んでいく。そうして見事な手さばきであっという間に作ったカクテル……らしき液体を、カクテルグラスに注いでみせた。

 私は思わず、ほう、と息を吐く。その液体は不思議と色んな色に輝いて、宝石のようだった。華やかでどこか甘い匂いがする。こんな酒は見たことがない。

 見ているだけで頭がぼうっとしてきて、勤務時間中なのもこの状況の異様さも忘れ、私は何も考えずにグラスの柄をそっと手に取り、それに口を付けた。

「お、おいしい……」

 爽やかでするりと喉を通っていって、なんとも形容しがたい、今までに感じたことのない味がする。こんなうまい酒は初めてだ!

 夢中で飲み干し、もう1杯頼もうとカウンターにグラスを置いたところで、私ははっと我に返った。

 何も、ない。

 目の前にはただの壁が迫っているだけで、カウンターも椅子も、グラスも棚も、あの男も、何もかもが消え失せていた。

 私は、疲れのあまりに白昼夢でも見てしまったのだろうか?

 そう思い呆然としていたが、口にはあの筆舌に尽くしがたいカクテルの味が残っている。

 

 

 私はどうしてもあのカクテルの味が忘れられず、次の日、こっそりと非常階段の踊り場へと向かってみた。が、あのバーは現れなかった。

 時間帯なのか? 曜日なのか? 階数なのか? 色々と試しているうちに、やがて私は仕事もせずビルの非常階段を上から下まで上り下りするばかりになっていった。どうしてももう一度呑みたい、もう一度呑めたらもう諦めるから……そう自分に言い訳をし続けていたが、そんな私の行動はやがて上司にバレてしまうこととなった。

 全く仕事をせずサボってばかりなだけでなく、その間非常階段をひたすら上り下りしているだけだというのがよほど気味悪がられたらしい。どんなに注意を受けても、カウンセリングや休養を勧められても、私は来る日も来る日も非常階段であの日のバーを探し続けた。

 そんな日々もある日終わりを迎える。とうとう、私は解雇処分となってしまったのだ。

 もちろんそうなるとビルに入ることすらできなくなり、数日間は廃人のようになっていたが……段々とあのカクテルへの渇望が頭から抜けていき、目が覚めるような心地がしてきて、そうして私は戦慄した。今思うと、まったくもって異常だ。たぶん、私が仕事をサボっていたことよりも話が一切通じなくなってしまったことの方が解雇の原因として考えられるだろう。

 私は何をあんなに熱中していたのだろう。

 そもそも――あの日、私は一体何を呑まされたというのだろうか。

 

(45分)

本屋/怪談/駆ける

 学校の七不思議というのはよく聞くけれど、その学校にそんな類の噂は存在しなかった。

 学校ではなく、この町そのものに七不思議が存在していたためだ。

 神社の鳥居を後ろ歩きで潜ると神様の世界に行ってしまうだとか、廃病院の窓に懐中電灯で合図を送ると看護婦の霊が見えるだとか。いくつかを試して本当だったと言い張る者もいれば、何も起こらなかったとつまらなそうにする者もいれば、そもそも試すまでもなく有り得ないと一蹴する者もいる。

 小学生くらいだと、オカルト話の大好きな年頃なのもあって一度は友達やクラス中がその話題で持ち切りになることもあるけれど、私みたいに高校生にもなると七不思議の話なんか誰もしなくなってしまった。いつまでもそんなことを言っているのは子供っぽくて、変な子だと思われてしまうのだ。

 そういう訳であまり表には出さないが、私は実のところ、そういった怪談話や都市伝説の類が大好きだった。有り得ないのは分かっているけれど、『そうだったらいいのに』と夢想することはいくらでもある。

 ところで、色んな人たち――主に行動力旺盛な小学生――が七不思議の検証にまい進しては無念な結果に終わってきた訳だが、その中でひとつ、恐らく誰も試していないであろうものがあった。

 それが七不思議の3つ目、『町の本屋で店員に見つからず閉店時間を迎えると、”シオリさん”に会える』というものである。

 この『シオリさん』が何者なのかは分からないが、十中八九オバケではあるだろう。

 なぜこの3つ目だけ誰も試していないのか。それは至極簡単な話で、閉店間際になると店員が店中をくまなく巡回して噂を試そうとする悪ガキをつまみ出してしまうからである。そりゃあ、そうだ。

 でも、だからこそ私は、どうしてもこれを試してみたかった。前人未到の地、未知の領域。もしかしたら、と私の内なる小学生が騒ぐのだ。

 どうしても自分を抑えられず、ついに私は行動に出た。とはいえ、私は高校生だ。無鉄砲な小学生とは違う。

 まず、私は件の本屋に通いつめ、閉店間際の店員の巡回ルートを把握することから始めた。制服姿で参考書を手に取り睨めっこしていれば、時間を忘れるほど勉強熱心な学生としか思われないことだろう。

 閉店間際の店員は2人で、片方が色々の作業をしている間、相方が店内の巡回をする、というのが決まりのようだ。見回り方に明確な規則は無いらしく、人によってルートがまちまちだったので、曜日を決めて特定の店員の見回り方を頭に入れ、何度も脳内でシミュレーションをし続けた。何度か「閉店ですので」と声を掛けられることがあったので、そろそろ怪しまれている可能性もある。

 そうして今日、とうとう肚を決めて行動に出たのだった。

 店員が見回りを始めるより少し前から視界に入らないよううまく本棚の陰に隠れ、店員が店内を歩き回るのに合わせて見つからないように少しずつ移動し続ける。心臓は絶えずばくばくと激しく脈打ち、脚が震えそうになった。そういうゲームでもやっているみたいだ。

 本当に店員から逃げ切って店を閉められたら、両親が警察に連絡したりして、物凄く怒られるかもしれない。それは覚悟の上だ。最悪出禁になるかもと思ったけれど、本が欲しいなら通販すればいいし、どうしてもこの本屋じゃなきゃいけない理由なんてないから、もはや私の好奇心を止められるものはこの世に無かった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。事前に大体何分くらい店員が見回るのか計ってみたりもしていたが、実際は時間を確認する心の余裕もない。見回りの最後まで見届けたこともなかった。

 ぱちん。

 フロアの電気が消え、店員たちがスタッフルームに消えていく。私は一瞬歓喜の雄叫びを上げそうになったが、寸でのところで堪えた。

 とうとう、ついに、やった。

 脚の力が抜け、私は床を這いつつスタッフルームから出て来るであろう店員から見えないところへと身を隠す。そのまま破裂しそうな心臓を手で押さえつけるようにして深呼吸を繰り返していると、店員たちが店を出て鍵を掛けるのが音で聞こえた。

 しん、と辺りが完全に静まり返る。

 視界は暗く、私が思い切り息を吐きだす音だけが響いた。

 私は震える脚で無理矢理立ち上がり、無意味に辺りをきょろきょろとしながら店の中を歩き回る。いざとなると、半分くらい「馬鹿なことをした」という気持ちが心の中を占拠しつつあった。

 店内を一周歩き回ったら、警察を呼んで助けてもらおう。親にも警察にも店員にも学校の先生にも、ありとあらゆる大人にこっぴどく怒られるだろうけれど、もう仕方がない。

 そんなことを思い、立ち止まって制服のポケットからスマホを取り出したそのときだった。

 たん、たん、と音がした。

 足音だ、と反射的に思った。

 ひゅっと体中の臓器が縮み上がるような、そのまま口から全部が出てきそうな心地がした。

 なんで? 誰? 私以外誰もいないのに。

 その足音らしきものは、背後からゆっくりと迫り続けている。

 無意識に背中が丸まり、走ってもいないのに息が切れていた。胃がぐるぐるとして、背中は冷や汗でびっしょりと濡れている。

 私は、かちこちに固まる身体を無理矢理に動かし、後ろを振り向いた。

「――――…………」

 店中いっぱいに響く悲鳴が、他人事のように聞こえた。

 誰かが、こちらに向かって歩いて来ていた。暗くてよく見えない。人型で、たぶん、女かもしれない。

 気が付けば私は駆け出していた。平積みの本を薙ぎ倒し、ワゴンを蹴り飛ばしたが、構う暇なんて無かった。私は必死に出口の自動ドアに向かって走り、途中で足がもつれて思い切り転んだ。頭を打ったのか一瞬世界がぐるりと回転したような気がしたけれど、痛みを感じる余裕すらない。

 無我夢中で立ち上がり、電源の切られた自動ドアに夢中で縋り付く。外側のシャッターが閉められていて、店の外の景色は一切見えなかった。

「誰か! 誰か助けて! お願い開けて!」

 分厚いガラスを必死に殴りつけ、声を引っ繰り返しながら叫び続ける。

 次の瞬間、首にひんやりとした細いものが触れて、あ、

 

 

「あれ? この本屋、潰れちゃったの? なんで?」

「なんか、閉店後に取り残された客が死んだらしい。なんでかは分かんないけど……前にも同じようなことがあったとかで、人が寄り付かなくなっちゃったんだってさ」

「私、ここで働いてたんだけどさ、あの変な七不思議を試すアホがいるからって閉店前に店中見回って客追い出すっていう謎作業があったんだよね。私はシフト違うからやったことないけど」

「結局死んでんじゃん」

「そうだよ、ほんとどうなってんだか……迷惑だよねえ」

 

(1時間15分)

木漏れ日注ぐ森/煙草/食べる

 とある辺境の村に住むとある男は、他の村人たちから遠巻きにされていた。

 意地が悪い訳でも、身なりが汚い訳でも、なにか犯罪をした訳でもない。朴訥としていて、大人しい男だった。

 ではなぜ遠巻きにされているのかと言えば、男の奇妙な癖のせいである。

 男は、煙草を食べるのだ。

 ふつう、火を点けて煙を吸うところを、紙を開いて中の草を取り出し、摘まんで口の中に放り込むのである。そのままもごもごとしばらく噛んで、ごくりと呑み込んでしまうのだ。

 たばこは煙を吸わずにそのまま食べると中毒症状を起こし、ひどいと死んでしまう。男のそれが初めて村人の目に触れたとき、見つけた婦人が慌てて男の口に指を突っ込み吐き出させ、男をこっぴどく叱ったが、男は何のことかと不思議そうにしていた。それどころか、その日以降も当然のように煙草を食べ続けている。幸いなのは、他人にも煙草食を勧めたりはしないことだろうか。男は他人を一切気にしなかった。

 そういう病気ではないかと誰かが言い、呆れて「もう放っておけ」と匙を投げる人もいた。そもそも、これだけ常習的に煙草を食べ続けて平気な顔をしているので、ほとんどの村人から気味悪く思われ、いないもののように扱われ始めていた。

 そんな中、村のとある少年はこの男のことを気にかけていた。直接何かをしたり話しかけたりしている訳ではないが、何かの秘密と理由があるはずだと信じて疑っていなかった。

 ある日の昼下がり、少年は男が村の外の方向へと歩いていくのを見た。誰も男を気にかけなかったが、少年だけは男のことが気になり、こっそりと後をつけていった。

 男は迷いのない足取りで、村はずれの森の中へと足を踏み入れていく。日の照っている時間帯だからか、木々の間から日が差し込み、森の中は明るく長閑だった。どうしても少年が足元の草や枝を踏む音がして、男にもそれは聞こえているはずだったけれど、男は振り返ることも立ち止まることもしなかった。

 やがて、男は一層太く大きな木の前で立ち止まった。少年が慌てて近くの木の後ろに隠れると、男の身体が見る間に縮んでいく。少年はあっと声を上げそうになり、慌てて口を塞いだ。

 背丈は子供ほど、手足は樹木の枝のようになり、どう見ても人間ではない。それが何なのか少年にはさっぱり分からなかったが、『森の精』と形容するのが一番しっくり来るような気がした。ひとつ確かなのは、男が人間ではなかったということだけだ。

 少年は踵を返し、森を後にする。男が村に帰って来ることはなかったが、村人たちは「あんなことをしていたからとうとう死んだんだろう」と疑問にも思っていなかった。少年は自分の目で見たものが真実だったのかも分からなくなり、結局口を閉ざしていた。

 

(50分)